Cobalt's Movie Log

映画鑑賞の感想など

映画「ミッドナイトスワン」を鑑賞

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とても印象に残る映画でした。観ている間も、映画館を出た後も、心を揺さぶられ、いろいろと考えさせられました。理解してあげられなかった人のことを思い出したり、優しくしてあげれなかったことを後悔したり、偽善的であるかもしれませんが、普段の自分よりも優しい気持ちになりました。

 

感想を忘れないうちにまとめておこうと思いました。

 

以下ネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

 

映画のストーリーを簡単にまとめると次の通り。

 

東京のオカマバーで働く凪沙(なぎさ)は、裕福ではないが、性転換の手術を受けるために、こつこつとお金を貯めている。ある日、田舎(広島)から電話があり、母親から虐待されていた中学生の一果(いちか)という娘を預かることになる。無愛想で生意気な一果を迷惑に感じる凪沙は、一緒に暮らして一果を少しずつ理解するにつれ、母性的な愛情を持つようになる。ネグレクトで閉ざされていた一果の心も、凪沙や新しく出来た友人によって、次第に溶けて明るくなっていく。一果はバレエに打ち込み始め、その才能を開花させていく。バレエのコンクールの日に母親が迎えに来て、二人の共同生活は終わってしまう。一果が母親の元に帰った後、凪沙は決心してタイで性転換の手術を受け、女として一果を迎えに行くが、親戚一同に追い返されてしまう。やがて中学を卒業した一果は、凪沙に会いに上京する。しかし凪沙の体は手術の後遺症でボロボロになっていた。一果は海をみたいという凪沙とバスに乗って海岸へ行く。そこで悲しい結末を迎えてしまう。

 

物語にぐいぐいと引き込まれてしまいました。この映画にそういう力を与えたのは、一果を演じる服部樹咲という新人女優と、凪沙を演じる草彅剛の二人の存在感です。

 

服部樹咲は、演技は未経験の新人です。しかしバレエの実力と、手足の長い体型がなかなかのもので、バレエのシーンがとても美しく魅せられます。そして演技の未熟さ故に、役柄の心を閉ざした少女がとてもリアルになっていました。

 

対する草彅剛の演技も素晴らしい。オカマの役というのは、例えば半沢直樹の黒崎のように、わかりやすく演じやすいものだと思います。それは、もともとオカマが、女を演じているようなものだから。しかし、草彅剛はオカマを記号的にトレースするだけではない。人生に疲れきった中年オカマの、男として生まれたもどかしさ、いら立ちなどを見事に表現していました。そして、持ち前の物悲しい優しい瞳で、オカマの哀愁と生まれた母性を感じさせていました。後半の優しい目を印象付けるため、最初の方のシーンではサングラスをかけていたり、手術のシーンや水槽の使い方など、監督の演出も効果的でした。

 

草彅剛の演技を、特にすごいと思ったのは、ラストの海のシーン。映画を観ながら途中までは、例えば草彅剛の同世代の井浦新でもいい演技したのではないか、などと思っていましたが、海辺のラストシーンの演技はものすごくて、これは草彅剛以外の人では演じられないだろうと思いました。いろんな演出家に高評価な俳優さんですが、すごい役者だとあらためて思いました。

 

しかし、あまりにもこの二人の演技と存在感、そして演出が素晴らしかったため、軸となるストーリーや設定が、なんだか陳腐に思えてきました。もっと練った話にすれば、さらに芸術性の高い映画になったのではないか、なんだか勿体ない映画だな、そんな印象を持ちました。

 

物語は、まるで昭和の少女漫画のよう。出版社に持ち込むと、文学出身の編集者からダメ出しされるようなお話です。私も小説をよく読むほうなので、映画に引き込まれながらも、リアリティを感じない設定や展開に違和感を覚えました。独身の中年男に、中学生の女の子の同居を押し付けるのというのも変だし、虐待されている少女が、才能あるとはいえバレエが上手すぎるのも不自然、そんなにバレエは甘くないよとか。そして仲の良かった友達が自殺したり(なかなかの演出でしたが)、凪沙が手術の結果が悪くて最後に死ぬとか(これもなかなかの演出でしたが)ちょっとやり過ぎじゃないの?誰も死ななくても感動じゃないの?とか。

 

これだけ二人が素晴らしい演技をするのだから、設定やストーリーをこんなにわざとらしく不自然にしなくてもいいのになあ、とか思ってしまいました。

 

ネットでこの映画に対するレビューを読むと、私と同じように感じている人もいるようで、 監督もわざわざ「これは娯楽作品、社会派作品ではありません」と発言しているくらい。まあわかってやったのだろうと思います。監督は我々より作品のことを考えていますからね。

 

映画は作品によって娯楽といわれたり、芸術といわれたりもする表現媒体ですが、基本はビジネスです。きちんと収支を黒字にして、利益を出すことが、監督としては最優先です。小難しい話にして観客に敬遠されるより、わかりやすい物語にして多くの人に観てもらいたいという意図は当たり前。

 

それにストーリーや設定がおかしい、というのも無粋なツッコミであり、漫画原作の邦画は、現実離れした話ばかり。このストーリーもアニメとしての話ならば、誰も細かい指摘はしないでしょう。原作が「漫画だから」「ラノベだから」というのはひとつの免罪符になっています。

 

そしてなぜ漫画原作のドラマや映画ばかりつくられているかというと、わかりやすさ、感動のしやすさが漫画の設定やストーリーにはあるからです。興行的に成功するための作品として、どうあるべきかということを冷静に考えると、漫画原作のようなものになってしまうのかもしれません。

 

高視聴率の半沢直樹のドラマなんて、小説原作で経済ドラマといいながら、まるっきりコメディですからね。わかりやすさは重要な要素なのです。

 

しかし、いざ撮って映画をつくってみると、監督の予想以上に役者さんの演技が素晴らしかったのかもしれません。観客にとって娯楽性よりも芸術性、社会性を感じる映画になったということでしょう。だから安易なストーリーや設定が幼稚に思えてしまったということだと思います。

 

劇場は女性客を中心にいっぱいでした。泣いている人も、少なからずいました。